雪道
その年は正月が過ぎても雪が積もる気配がなく、何故か冬休みの課題をする気になれなかった奈緒子は、茶の間で同じくやる気のないらしい弟と妹と一緒に何年か前に購入したアニメのビデオを見ていた。玩具のお話だ。好きなタレントが声優をやっていて、もとの英語版の声よりも此方の方が断然役に合っていると思っていた。
そして奈緒子が炬燵の上の蜜柑に手を伸ばしかけたときである。
「奈緒子」
店の方から祖母の声がした。
「なんや、おばあちゃん」
答えると祖母は店から茶の間へと入ってきた。
「これ、岩村のばあちゃんとこにやってきてくれんか」
そういって手渡されたのはスーパーのナイロン袋で、中には鰈の一夜干しと絹ごし豆腐、そして家のタッパが入っていた。
「おばあちゃん、これ何?」
「今日のおいなりさん」
「ああ、御裾分け」
奈緒子の祖母はいなり寿司の名人である。今日も休日起きるのが遅い奈緒子が下に下りると、台所でせっせと祖母が寿司飯を油揚げに詰めていた。お昼も当然いなり寿司で、奈緒子と弟と妹、そして丁度大阪から帰って来ていた大学生の姉とで40個あったいなり寿司をぺろりと平らげてしまった。私とおばあちゃん一個ずつしか食べとらんがに、と母は呆れていた。
「やってきてくれるけ?」
「いいよ」
奈緒子は答えて着ていた半纏を脱いだ。ヒーターが入っている部屋でも少し冷気が感じられた。
ジャケットを着て行こうかと辺りを見回したが、自分の着ているものは所詮裏生地の黒いパーカーと膝の擦り切れた赤いジャージである。学校へ着ていく用の、帽子にふさふさとした毛のついたジャケットはどうにも合いそうにない。どうせ遠くない家なのだから構わないか、と思い直して奈緒子は店へ続く玄関口へと向かう。
足元に新聞が落ちていて、天気図の等高線は間の狭い縦縞を描いていた。この間天気予報で縦縞模様は寒気団、とお姉さんが言っていたのを思い出してやはりジャケットを羽織ろうかと考えたが奈緒子は結局止めておいた。
奈緒子が玄関に並んだ履物の中からいつも使っている足にいぼのついた突っ掛けを履こうとすると傍に来ていた祖母が止めた。
「外雪降っとるからばあちゃんの長靴履いて行けやれ」
「んー」
この格好で長靴を履くともともと化粧をしていない顔が更に田舎くさく見える気がして、正直乗り気でなかったのだが、仕方なく履くことにした。一年ほど前に突っ掛けで雪道を歩いて盛大に転んだ苦い思い出があるからだ。けれどジャージの裾ごと長靴に入れるのは勘弁とばかりに黒い長靴の中から、奈緒子は自分のジャージの裾を引っ張り出した。これでぱっと見は普通の靴と変わらない。
外を見ると、店のガラス戸越しに祖母の言ったとおり雪が降っているのが見えた。
「此処にメモしてあるさけ、ばあちゃんに渡しといて。ほんで、タッパ返すの何時でもいいって言えんよ。それからこれ、お金入れとくし、おつりと、貰ったお金も此処」
「わかったわかった」
受け取ったくすんだ色の柔らかなポーチをパーカーのポケットに仕舞い込む。
「あ、傘」
祖母は棚にかけてあった黒い布傘を奈緒子に手渡した。
「気いつけていけんよ」
祖母は店の玄関先まで見送りに来た。
「はあい」
がらら、と店の滑りの悪い戸をあけて奈緒子は家を出た。
奈緒子の家は祖母が切り盛りする食料品店である。
小さなこの町で、昔から続く店だ。祖父が生きていた頃には和菓子を作って売ったりする事も屡あったが、今は食料品を売るだけである。だが、古い家が猫の溜まり場となるように、出来た当時のまま続くこの店は近所の老人の溜まり場となっていた。その証拠にさっきも祖母は何人かのおばあちゃん方と話をしていた。奈緒子もその中に時々混じり、また時には林檎を剥いたり自分で作ったクッキーやケーキを振舞ったりする。なので「奈緒ちゃん」は近所のおばあちゃんからも人気だった。
その中でも岩村のばあちゃんと奈緒子はとても仲が良かった。
岩村のばあちゃんは、去年の11月に腰を悪くして一時入院していたのである。見舞いに行こうと奈緒子は思ったが、病院はこんな山奥の町からだと自転車でゆうに40分はかかるし、祖母や母から気を遣わせては悪いから、と止められていたので行けなかった。また奈緒子自身も吹奏楽部の大会前だった、というのもある。
その岩村のおばあちゃんが、お正月に合わせて退院してきたのであった。
しかしまだ当分外を歩き回れるほど腰の具合も良くないので、奈緒子の家で買い物が出来ない分、こうやって冬休みの間奈緒子が配達に来ていると言う訳なのである。
誰もこんな日に外を出歩く人はいない。会ったのは手押し車を押す老人だけだった。奈緒子の家の近くには大きな神社があって、正月は出店も出て参拝客が沢山訪れていたのだが、今は見る影もなく、ひっそりと静まり返っている。
北風が吹いて、ひゅうと雪を散らす。
寒い、と肩を縮こまらせながら奈緒子は悶々と2学期の理科の時間で聞いた地球環境の話を思い出していた。
「30年後にはこの地域は四国くらいの暑さになってしまうんです」
白衣を着た先生は確かそう話していた。秋も終わりの季節だというのに変に暑い日で、暑がりのその先生は白衣の下に薄手の長袖しか着ていなかった。
30年後に四国、というとこの地域に雪が降らなくなるのだなあ、と奈緒子は午後の眠気と格闘しながらぼんやり思った。
「雪降らんくなったら、嫌やなあ」
授業が終わり理科室から教室に戻るときに奈緒子は友人の亜季にそう言った。すると亜季は眉根を寄せて、
「そうけ?あたしはいいけどなあ。ほら、うちの町冬すっごい雪降るがいね?ホンット大変ねんて」
「あー、亜季ちゃんとこはそうやろうなあ」
「やろー?」
一理あるな、と奈緒子は素直に頷いた。亜季の家は奈緒子の家よりもさらに山手にあり、積雪1Mは軽く超えてしまうのだそうだ。母が亜季の住む町に勤めているので毎冬に聞かされる話だった。
雪掻きは確かに大変であるし、屋根雪の心配もせねばなるまい。第一バスが運行できなくなるので学校に来るのも遅れてしまう。
それを思うと亜季の言うことは最もなのだろう。
(でもなあ)
コンクリートの地面を踏みながら奈緒子は首を傾げた。
(雪降らんくなったら、やっぱ、嫌やなあ)
ずっと雪国といわれてきた地域なのだ。そこで奈緒子は育ってきたのだ。
そこに雪が降らなくなる。
(例えば、私が結婚して、子供が生まれて私位の年になったら、もう雪は降ってないかもしれんのやなあ。…そしたら、今私が見とるこんな景色もその子は知らんくて、この寒い感じもどんだけ言っても分からんのやろうな)
この青味がかったような灰色の空気も、吹き付けてくる冷たい風も、手の先が一気に悴んでしまう感じも、30年後のこの地には存在すらしない。
(そしたら私等らのイメージにある冬は消えてなくなってしまうんか?)
空き地に向かう様にして岩村のばあちゃんの家はある。昔ながらの日本の家だ。昔はミチという犬を飼っていたが大分前に死んでしまった。
ピンポーンと一応チャイムと軽く押すが、奈緒子はどうもこれが好きになれない。子供の頃から何処の家に行くにもがらら、と戸を開けて「こーんにーちはー」と言っていたものだから、そしてその家の人もそれを普通としていたから、今更こんな物が付くと変に緊張してしまってむず痒い気分になるのだ。
がらら、と戸を開けて奈緒子は言う。
「こーんにーちはー」
返事はない。
「こーんにーちはー」
大きめの声で呼んでみたのだがやはり返事はない。
もうこの家にこうやって配達に来るのは3度目だがいつも一回目ではぁい、という声が聞こえる。
もしや、ニュースやドラマでよくあるように、ばあちゃんがストーブのつけ過ぎがもとで一酸化中毒になって居間で倒れていたりするのではないか、と奈緒子は不安になった。
(次で返事なかったら無理矢理上がろう)
奈緒子はそう心に決めて声を出した。
「おばあちゃーん?佐藤ですー」
「はーい」
ああ良かった、と奈緒子は胸を撫で下ろした。
「ちょっと待っとってんね、よいしょ」
居間の方から声がして、暫くすると岩村のばあちゃんが現れた。
「あらあ、トキちゃんけぇ?」
「違う違う、登喜子じゃなくて、奈緒子やよ」
「あらぁ、似とってよう分からなんだ」
去年から中学に入り、ぐんと背も伸びた妹とそっくりになってきた、と岩村のばあちゃんはよく言う。確かに奈緒子と登喜子とは今身長も同じくらいだし、髪形も似ていて、二人とも休日は眼鏡をかけているからとても似て見える。
(でも実際私の方が二重やし可愛い顔しとると思うんやけどなあ)
うーん、と唸る奈緒子だったが、ばあちゃんがにこにこしていたのでまあよしとする事にした。
「干物とお豆腐持って来たよ」
「あらぁ、ありがとんね。今お金出すさけ」
広い玄関に座り込んでばあちゃんは財布からじゃらじゃらとお金を出し始めた。
「いくらけ?」
「えーっと…430円やわ」
「400・・・・400・・・・」
「なかったらお札でも良いよ、家のおばあちゃん御釣り用意してくれたし」
「いや、どもねえ、おぉ、あったあった」
ちゃりちゃりと手渡されたのは100円玉3枚と50円玉2枚だ。
「ほんであと30円やったんね」
「うん、30円」
皺だらけの手がゆっくりと、薄暗く落ち着いた玄関の中で茶色く光る硬貨を拾っていく。
「はい、30円」
「はぁい、ありがとー」
ポケットからポーチを取り出し、その中のがま口にお金を仕舞う。
それから、と奈緒子は付け足した。
「うちのばあちゃんな、今日おいなり作ったんや。一緒に持ってきたさけ、食べて?」
「あらぁ、ほんとけえ?ありがとー」
悪いんねえ、とばあちゃんは申し訳なさそうに笑う。奈緒子は首を横に振った。
「ちょうど、家のお父さんも年やし、あんまり肉とか食べれんやろ?そやからお魚してやろうと思てんねえ。あって丁度良かったわ」
「おいね、うちのおばあちゃんもホント魚もそんな食わんでんねぇ」
「やろう?…はーぁ、それにしても奈緒ちゃんほんと美人さんになってしもて」
岩村のばあちゃんは会うたび奈緒子にそれを言う。
「そーんなことないってーまたぁ」
奈緒子は笑っていつもそう返す。
何回となく言われている言葉が奈緒子には嬉しかった。
可愛いとは、まあお世辞も含めて何度か言われたことはあるが、美人というのは言って貰った事がないからだ。
それに何度聞いても岩村のばあちゃんの口調には嫌味がなくすっと入ってくる。常々可愛くもないし増してや美人でもないと思っている奈緒子には単純に喜ばしいことだった。
「いやいや、ホントすらっとして美人さんになったわいね」
「ふふ、ありがと。そうや、外雪降っとるんやって」
「あらっ、そうなんけ?」
「うん、今週末積もるでしょう、やってさ」
「はー、嫌やんねえ」
「やよねえ」
はあ、と二人で溜息を付いてからふふ、と笑った。
「ほんならそろそろ行くわ」
ありがと、と奈緒子は玄関の戸に手をかける。奈緒子の町では家を出る時さようならの代わりにありがと、と言うのだ。
「こちらこそ、なおありがと」
「いーえ」
戸を開けると、雪は来たときよりも細かく強く吹雪いていて、道が白くなるのも時間の問題のようだった。
「ばあちゃん」
戸を閉める前に奈緒子は言った。
「タッパ返すのいつでも良いってばあちゃんが」
「わかったよ」
「それから、今日明日すっげえ寒いけんど、風邪ひかんといてや」
「うんうん、奈緒ちゃんもんね」
「うん」
「そんなら。またね」
「はぁい、またね」
がら、ぴしゃん、とゆっくり戸を閉めて奈緒子は傘を開いた。
頬には自然と笑みが刻まれていた。
シャーベット上の雪の中をじゃくじゃくと歩く。
表通りにまで出ると、高瀬さんの家の金木犀は既に白くなりかけていた。
奈緒子は道のど真ん中に立った。本来ならば車が通るはずのこの場所も、今は何も通らない。人っ子一人居ない。
(誰もおらん)
真直ぐ橋の辺りまで続く道に誰も居ない。ただ雪だけがひゅうひゅうと降っているのだった。
灰色で、半分色を失くした様な世界。淋しい景色なのかもしれないが、奈緒子はこれを見るのが好きだった。冬だと言う感じがするからだ。
特に今年は中々雪が降らなくて、理科の先生が語っていた温暖化の影響が目に見えて現れたような暖冬だったから、こんな風景は見られないのだろうかと思っていた。だから奈緒子はホッとしていた。
(でも30年後にはこの景色もないんや。さっきばあちゃんと話しとったみたいに、嫌やんねえなんて言えんくなるんや)
小さな交差点のど真ん中で、奈緒子はこの町に自分ひとりだけしか居ないというような感覚に襲われた。
そんな中で、昨日の夕食時の話が不意に浮かんだ。
「登喜子、ちゃんと手使って食べなさい」
母が顔を顰めて妹の左手を指した。
「はぁい」
としぶしぶ妹は御飯茶碗を抱える。そして、でも、と言い訳がましく続けた。
「クラスの子は皆こうやって食べとるよ?」
「そんなんいかんのや!」
「そやそや」
姉と奈緒子が加勢に加わる。
「私もな、大学で食事しとったら、皆行儀悪いから注意したら『多香ちゃん小姑みたい』って言われてな〜」
関西弁交じりの調子で姉は言った。それを受けて話したがりの弟が、
「俺のクラスもおるよこうやって前かがみで食う奴」
と大きな声で返す。その途端父に飯は黙って食べろと怒られて嫌そうな顔をした。
奈緒子はふうと溜息を付いた。
「私の周りにはあんまりおらんけどなあ。でも実際、みんなの話聞いとると、今やっとる総合学習の大学調べなんかよりも、マナー学習やった方がよっぽどいい気がすれんけど」
「そやんねえ、うちの小学校でもやらないかん」
栄養士である母は笑った。だがすぐに真面目な顔になって言うのだった。
「でも、給食見回っとって思うけど、姿勢だけじゃないんや、悪いの」
「何かあるん?」
「ばっかり食い。おかずだけ先に食べて、ご飯最後似食べるんや」
「えー、ありえんし」
「ホントねんよ。多分欧米の文化が入ってきたから…ほら、コース料理とかあるやろ?やからそういうのに変わってきたからやと思うわ。ほんでそれに慣れてしまったんや」
(変わって、慣れる。………全部、そうや)
奈緒子は空を見上げた。雪が眼鏡にあたって思わず目を細めた。
空はどんよりと、けれどもどこか薄明るく曇っている。
(例えば、岩村のおばあちゃんだっていつか死んでしまうし、家のおばあちゃんだっていつか死んでしまって、そしたらうちのお店も無くなってしまう。)
軽く頭を振って、奈緒子は再びじゃくじゃくと歩き出した。
黒いパーカーに雪がこびり付いてはゆっくりと溶けていく。
(……人間も自然も、変わるんや)
家が見えてきた。
屋根の下に入り、傘に付いた雪を振り払い、序でにと自分のパーカーに付いた雪も払う。
手が悴んで冷たかった。
(ほんで、それに慣れてしまうんや。雪のない町にも、寒いねえ、やんなるねえってばあちゃんと話すことも、悪い姿勢でばっかりぐいすることにも。)
奈緒子にとって、それは酷く悲しいことの様な気がしてならなかった。
もう一度自分の足跡だけが残る道を振り返ってから奈緒子はがらら、と戸を開け、ゆっくりと閉めた。
遠くの方で雪雷が切なげにごろごろとなった。
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これをもう少し直したものが全国何とかで賞を取ったそうです。
審査員って本当へんなひとが多いんですね。