はる。うた。てんきははれ。 





 ある時僕は道を歩いていた。
 何でかって?理由なんてそんなに立派なものじゃないんだ。ただなんとなくって、それだけ。
 本当なら、あのまま電車に乗って5つ先の駅に降りて、この草臥れてきたスーツで会社に行かなきゃ行けなかったんだけれど、今日は何故だか唐突にそんな気が失せてしまった。いや、実を言うと会社に行く気がある日なんてここんとこそんなに無いんだ。今日の僕がいつもと違っていたのは、会社に行く気が無い云々より、会社をズル休みする勇気があるということだった。
 携帯電話を取り出して、ちょっと弱々しい声で上司に連絡を入れた。風邪ということにしておく。僕の部署の上司は中年だが物分りのいいオッサンで、お大事にと言って電話を切った。
 部下思いの優しい上司に良心が痛みながらも、僕は笑っていた。だって、ズル休みするのなんて小学校の時以来だ。
 


 てくてくと当て所も無く道を歩いていくと、やがて河原に出た。ここら辺では結構大きな川で河原も広く土手の上には今の季節らしく桜並木があった。300メートルほど手前に赤い鉄橋が見える、電車が一本走っていく。成る程、僕がいつもぎゅうぎゅう詰めの電車から見てる川は此処で、窓の外から電車を見るとあんなにちっぽけなんだ。
 河原に下りようかとも考えたけれど、そのまま何となく桜の下を歩くことにした。今が丁度散っていく時期らしい。ひらひらと舞う薄紅。淡い水色の空を覆い隠すように伸ばされた枝。
 急に眩しくなって、意味もなく苛立ってきた。どうしてだろうと考えて、下を向いて歩いていたら結論がぼんやりと出た。
 桜があんまり綺麗だからだ。枝についている花や散っていく花弁は言うまでも無く、ひび割れたコンクリートの上の潰れて湿気を吸った花までもなお威張るように存在を誇示しているから。滑稽で儚い物なのにやっぱりそれだって綺麗で僕は口を噤んでしまう。
 なあ桜、どうしてこんなに綺麗な色でお前は咲き誇る?
 僕を馬鹿にしているの?
 自慢げに散っている花溜まりのひとつを蹴り上げた。
 何枚かは優雅に空に舞い上がる。それも憎らしくて歯痒くて、唇を噛んで顔を上げた。



「―――――――あ」
 視線の先に飛び込んだものに、僕は思わず声を上げた。
 何がいたかって?
 女の人だ、女の人がいたんだ。
 そりゃあ歩いている人なら珍しくも無いだろうけど、彼女は違った。
 桜の木の下に彼女はいた。真っ黒な長い髪と薄紅色の強い色が凄く似合ってる。
 彼女は寝ていた、幹に頭を凭せ掛けて。朝っぱらからこんなところで寝てたらびっくりするだろう。彼女の隣には黒いギターケースがあった、彼女の持ち物だろうか。それにしたって少女とギター、その響きだけで格好いい感じがする。
「・・・死んでないよね」
 それだけが不安で僕はポツリと呟いた。
 ところで、どうやら僕と同い年くらいの娘さんがこんな所で一人で寝ていては危ない。今時何があるか解らない、悪い男だってこの世の中には5万といるから変なところに連れて行かれたらたまったものじゃないだろう。
「あの、大丈夫ですか」
 暫くどうしようか迷った後、僕は彼女に声をかけた。・・・のだが、どうやら暴睡しているらしく起きない。
「あの、すいません?」
 ちょっと触れるのを躊躇ったけれど、その細い肩を揺さぶってみる。すると眉がぴくりと動いた。
「ん・・・・・・?」
 掠れたような声を出して、彼女は眉根を寄せたり離したりを繰り返し、瞬きをしながらゆっくりと目を開けた。
ぼんやりと中を見つめていた目の焦点が合って、僕を見る。
 大きな大きな二重の瞳。
「あの、どちらさまですか」
 女の人にしたら少し低い声が尋ねた。
 顔の雰囲気にとても合う声で、少しドキドキしながら僕は答えた。
「ええと・・・、こんな所で女の人が一人で寝てたら色々不味いかと思って声をかけてみたんだけど・・・すいません」
「あ、そうだったんだ。私の方こそごめんなさい、確かに危ないよね、ありがとう起こしてくれて」
 警戒していた頬の筋肉を緩ませて彼女は笑った。
 僕も内心ホッと胸を撫で下ろした。
 目の大きな人がじっと見詰めてくると迫力があると思うのは僕だけなのかな。
 彼女は一度空を見上げる仕草をしてから土を払って立ち上がった。
「本当ごめんなさい、お仕事行く途中だったんでしょ」
「え?」
「だってその背広」
「あ、ああ・・・」
「?」
 そういえばズル休みしてる最中なんだっけ、自分が何を着てたかなんてついうっかり忘れていた。
 曖昧な返事をした僕を見て彼女は訝しげに首を傾けている。薄い唇が動く。
「仕事に行くところじゃないの?」
「え、ええと」
 ズル休みです、なんて小学生みたいなこと言って信じてもらえるのか?というか、言う必要があるのか?
「あ、・・・・・・変なこと聞いた?もしやリストラ?」
「いや、そうじゃない」
「なら、なあに」
 ああそうか、確かにリストラにも見えるな、なんて思いながら僕は答えた。
 よくわからないけど正直に言った方がいい雰囲気だ。
「ちょっと、ズル休みしてるだけ」
「ズル休み」
「そう、ズル休み」
 笑うかな、と思ったら、彼女はそうなんだ、と普通に返してきた。
 会話が途切れる。それじゃあといって立ち去ろうかと思った。けれど立ち去ってどうしようという意志も無かった。
「君は、どうしてこんなトコ居るの」
 なのでちょっと会話を続けてみることにした。
 彼女は大きな目をぱちくりさせた。
「私?」
「うん」
「私・・・も、そうだな、ズル休みかな!」
「そうなんだ」
 同じ答えを返されて、成る程彼女の心理がわかった、自分で言ってちゃ面白い答えかもしれないが、聞くほうにとっては別にどうってことはない。
 また途切れた会話。彼女はうーんと首を捻ってから言った。
「ねえ、もしかして暇だったりしない?」
「え、なに、暇だけど」
「じゃあ、ズル休みした者同士、ちょっと話さない?」
 なんて突然強引なことを言う。
「新種のナンパ?」
「かもね」
 彼女は笑って肩を竦めて見せた。
 特にすることもなくぶらぶら歩くよりはこの人と話していたほうが面白いかもしれないと直感が囁く。
「わかった、いいよ」
 こうして僕は変なナンパにつきあうことになった。
 


 どっかに行くのかと思ったら、彼女はギターケースを抱えて土手の斜面に移動して座っただけで、僕ものそのそとそれに倣った。
「名前は?」
「高槻壮太、そっちは」
「志麻香澄」
「いい名前だね」
「そっちもね、ね、高槻君は仕事何してんの?」
「何てことないサラリーマン、パソコンメーカーで働いてる」
「ふーん」
 日がな一日パソコンと向き合うだけのつまらない毎日なんですよ。そんな面白そうな目向けてもなんも無いんですよ。
「志麻さんこそ、仕事は何してるの」
 僕なんかだと格好からも察しがつくだろうけど、志麻さんは全くわからない。彼女が着ているのは白くて真ん中に英語とオレンジの輪切りの絵が描かれてあるTシャツと、イイ色をしたジーンズだ。飾りも全くつけていないまんま普段着という出で立ち。
 そしてギター。真っ黒なハードケース。
 フリーターかなんかだろうか。それとも僕が年上に見すぎてるのかな、大学生かもしれない。よく見ればまだあどけない顔立ちだし。
 志麻さんは眉尻を下げて笑った。
 最初見た時から思ってたけど彼女は表情がくるくる変わる。その一つ一つに迷いがなくて綺麗な顔をすると思う。
「私ね、ミュージシャンなんだ」
「・・・・・・え?」
 言われた言葉をすぐには信じられなかった。
 ミュージシャン、というと、あのミュージシャンか?
「ホントに?」
「うん、一年前にやっとデビューしてね。まだ駆け出しだから、高槻君も知らないじゃない?」
「いや、僕、そんな音楽聞かないから詳しくないだけ」
「そうなの?」
「うん、CDとかもそんなに持ってないし」
 それに聴くとしたら大体が洋楽で、邦楽なんかは滅多に聴かないのだ。
「そっか、ミュージシャンなんだ・・・」
 だと言うならその格好にもギターケースにも合点がいく。
「すごいな」
 ぽろっと言葉が口をつく。
 すると志麻さんは困ったように怒ったように口を尖らせた。なんだろう、悪いこと言ったかな。
「ご、めん、変なこと言ったかな」
「変なことって訳じゃあないけど、私別に凄くない」
 ただギターと歌が好きなだけだから、凄いわけじゃない。
 ざっくりと言い切って志麻さんは僕を見た。視線が外れていかないことに酷く焦る。今まで会った友達や上司や後輩、親も先生だって自分の意見を言い切った後に相手をこんなにも真直ぐ見てくる人はいなかったからだ。
 瞳が、強い。まるで僕らの背後で咲いてる桜のように、淡い色なのに、強くて鮮明だ。
「そうかな」
「そうだよ、凄くない」
 気圧されたように僕は下を向いた。
 しかしてその一瞬後すぐに顔を上げることになる。志麻さんがとんでもないことを言ってのけたからだ。
「寧ろ私悪ガキだよ、今日の夜ライブがあるのにリハーサルズル休みしてるんだもん」
「・・・え!?」
「驚いた?ホントだよ」
 ごろんと志麻さんは寝転がった。そのままうーんと伸びをする。
 開いた口が塞がらないと言うのはまさにこの事だろう。リハーサルを休んだなんて、それだけで一体どれほどの迷惑がかかっているんだ。それでも空を見上げる志麻さんをルーズだとか腹が立つとは思えなくって(多分僕もズル休みをしているからだ)、結局溜息をつくだけだった。
「やっぱり、すごいよ志麻さんは」
「・・・そう?」
「したいこと、やってるもの」
「・・・・・・高槻君は違うの?」
 したいことしないの?
 きょとんとして訊かれる。少したじろいだ。ここまで真直ぐに聞かれると躊躇してしまう。
 答えに詰まって逃げるように空を見た。曇ったような淡い水色。
「うん」
「どうして?」
「・・・聞きたい?」
「うん、ナンパしたの私だけど、少しは喋ってもらわないと」
「はは、長いよ?きっとオヤジみたいって思うよ?」
「いいよ、聞いてみたい」
 志麻さんがあんまり熱心に言うものだから、笑ってしまう。
 そういえば話をまともに聞いてもらうのって何年ぶりだろう。もう、ずっと長いこと話していない気がする。初対面の人に何自分の内側的なことを突然話そうとしてるんだろう。
 でも、空はまあ綺麗だし、天気はいいし、桜も咲いてるし。
「話してよ」
 物語をせがむ子供みたいに志麻さんがそう急かすから。
 息を大きく吸って吐いて、ぽつぽつと僕は話し始めた。


 
 高校のときから僕はずっと「なんでもない」人だった。ぼんやりといける程度の高校に進学したし、大学だって一応目指すところはあったけれどそんなに行きたいわけでもなくて、結局得点が足りなかったか何かで妥協していける大学に進んで。
 どうやら僕らの年の人はそういう傾向が多いらしいんだ。まるで症候群みたいに、何かに熱くなれるわけでも抵抗できる力も無く、流されるまま生きる人がね。
 多分、・・・言い訳じゃあないけど、そういう教育の所為もあるんだと思う。
 僕らの頃から学校の方針ががらりと変わって、不幸にも僕らはその第一期生、つまり実験動物みたいなもんだったんだ。だからとりあえず先生の言うことには従っておけ、と思っていたら案の定色々と失敗があったらしく、それを棚に上げるかのように3年になってから「お前等の年の成績は最悪だ」とか何とか言われるようになった。
 自分のこと棚に上げて何言ってんだよ、とか、ふざけんじゃねえよ、とか皆言ってたけどそれを直接口に出して諍いするほど元気もなかったし、どちらかといえば失望とか諦めが強いのかもしれない、やる気が無いといわれても言わないでおくのが一番妥当なんだろうって結論を出して黙り込むのが普通だった気がする、うん、そうだった。そうしてまた目的も無く勉強だけ始めてみてた。
 そんなふうに10代を過ごしてみたら、今結構叫ばれてるアイデンティティとか生きがいとかも何がなんだか解らなくなってきて、中途半端に子供なまんま大人になってしまった。だってそんなものあったからって結局潰されてばかりだったんだ。それにいつまでも抵抗できるほど熱く育ってないし、現実の嫌な部分ばかり言われては、正義感も失せるってもんなんだろう?
 僕らは――――――いや、僕はまるで、川岸に見えるあの街の様だ。排気ガスで煙った町、いつまでも晴れることの無い霧みたいなもんだったんだ。
 そういえば、結局僕らの次の次の年くらいからまたもとの教育制度に戻ったんだって、それってつまり僕らが受けてた実験は失敗だったって訳。僕らみたいなのが多くなっちゃったからね。

「まあ、つまりさ」
 話がつながっていない気がするんだけれど、いちいち繋がった話をしていたらこっちが何かに捕われてしまいそうだ。今は良い、そういうことは放っておこう。
 一呼吸おいてから僕は言った。
「何でもないように、一番『妥当』な生き方をしてきたから、したいことがそこまでしたいことなのかどうか分かんないんだ」
 リスクを背負ってまで、熱望できるものなのかどうか。だからいつまでも中途半端な感じが抜けなくて、やりたいことをやろうとも思えないし、じゃあやらないからといって何もしない生活はいささか不満で。
「わけわかんなくなるよ」
 志麻さんを真似して寝転がった。頭に当たる短い草の感触が気持ちいい。匂いが違う、土の匂いがする。視界ががらりと変わって空だけになる。この角度も何年ぶりだろう、とふと思った。
 暫く僕らは何も言わないでいた。
 やがて志麻さんのほうが切り出した。
「言い訳、だね」
「うん、そうだね」
 笑って僕は答えた。志麻さんの声には侮蔑の響きも怒りの感情も無かった。とても穏やかな気分だった。
 そう、言い訳なんだ。結局やらないのは僕自身。やろうとしない僕自身。
「僕が悪い」
「・・・高槻君は優しいね」
「何故?」
「全部が人の所為って訳じゃあ決して無いけど、だからってまわりが全く悪くないわけじゃないのに」
「・・・良い言い方をすればそうかもしれないね」
 僕は優しくなんてない。臆病なだけだよ志麻さん。
 何%かはそりゃあ他人の責任だろうけど自分にも非があるのだろうってこと解ってたから、言えないんだ。「自分が出来ない事人に言えないし」。これが僕の口癖、もしかしたら僕は変なところで完璧主義なのかもしれない。自分が出来なけりゃあ言う権利が無いなんてさ。
「初対面の人に言うのも変だけど、志麻さんが羨ましい」
 今さっき会ったばかりの彼女の何が分かるわけでもないのに、そう思う。
 彼女はきっとやりたいことをやりたいと言えるだろう。相手の目を見て、真直ぐ。
 言ってから少ししまったと思った。
 彼女だっていくらか怖い思いはあるはずなんだ。それに勇敢にも立ち向かっていっているのに、まるで僕は一生懸命な彼女を馬鹿にするような態度をとってしまった。
 ・・・けれど、思ってしまったのだから。
 できないんじゃないかと思ってしまっているんだから。
「・・・・・・高槻君にも出来るよ」
「何が」
「したいこと、できるよ」
「無理だね、もう遅すぎる」
「そんなこと無い!」
 がば、と志麻さんは立ち上がった。子供のようなキラキラした眼が怒っている。この眼は一体どれだけ綺麗なものを見てきたんだろうか、一体どれだけ汚いものを見てきたんだろうか。
「賭けしよう、高槻君」
「賭け?」
「私今から歌う。それで高槻君がその気になったら、ちょっとで良いから、したいこと、探して、してみてよ」
「・・・・・・ならなかったら?」
「私今夜のライブに出ない」
 ハードケースの留め金を外す彼女を見て僕は思わず息を呑んだ。
「リスクがでかすぎないか?それとも、自信?」
「違う。・・・一人の人に音を聞いてもらえないようじゃライブやってても仕方ないもの」
 だから、と語気を強めて志麻さんはギターを構えた。綺麗な茶色のそれがぼんやりした陽光を受けて光る。
すう、と息を吸い込んで志麻さんは歌い始めた。



あの時、自分自身と賭けていた焔

燻ってるなら 風を

足跡に 仄か燈る 光

振り返って 見つめた

詰め込んだものは

したたかさと 次への浪漫・野望

君たちとの日々は 心に

暗い 明け方の道

大きな絵筆 担いで

塗りたくっていく 地面

歌を 口ずさんで

時に 大きな声で

いつも 笑顔で無くていい

ただ、本当の顔だけ 絶やさぬよう

僕は 今日も 歩いていくよ



 短い詩だった。
 易しいけれど難しくて、どこか粗野な言葉だった。
 アコースティックギターがこんなにも多彩な音を奏でる。志麻さんの指が忙しなく動く。薄い唇が大きく開いて、通る声が貫く。表情が無い、全て歌うことに持ってかれてるみたいな。なのに時々、空気の一粒一粒までに感謝するように顔が笑う。
 この人、生きてる。そう思った。
 生きてる人はこんなにも綺麗だ。
 自分の中の動悸がどんどん激しくなる。それが不思議と心地いい。薄い管の中、どくどくと迸っている血を感じる。そうか、僕も生きてるんだ。生きているならこんな綺麗なものになれるだろうか。
 ・・・なりたい。
 彼女のように、自分が生きていること、ここで息を吸って吐いてを繰り返していることを、誰に分からなくてもいい、誇示してみたい。
 心の底から声がした。内側からどんどん叩かれているみたいだ。手が熱い。心臓が熱い。
 最後にジャンッと音を立てて志麻さんは荒く息をしながら上を見た。そして僕に振り返る。
「すごい」
 僕は言った。
「すごいよ、志麻さん」
 やっぱり、君は。
「すごい」
「その、調子だと、私賭けには勝ったみたいね」
 志麻さんは笑った。やっぱり綺麗な笑顔だ。
「うん」
「じゃあ、したいこと、言ってみて。それ聞いたら私、リハーサルに行くから」


 僕のしたいこと。



 ・・・きっとこれからも生活は変わらないんだろう。変わってたのは今日一日だけで、明日からきっと僕はまたあの電車に乗って5つ先の駅で降りて、この草臥れてきたスーツで会社に行かなきゃ行けない。今更変わることなんて無い、それは分かってる。でも。
「そうだな・・・とりあえず、志麻さん」
「なに?」
「今日のライブのチケットは売り切れ?」
「うん、確か」
「じゃあ、連絡先を教えておくよ、次に近くでライブをやるなら教えてくれないか、きっと行く」
「え?」
「もっと志麻さんの歌が聞いてみたい」
 眼を逸らさずに僕は志麻さんに言った。彼女が逸らさないことは分かっているから。



 志麻さんは、少しだけ顔を赤くして、嬉しそうに笑って良いよと言った。その後ろに桜の木が誇るように咲いていて、最初に思ったとおり、志麻さんによく合った。その時僕の心臓がかすかに変な音を立てたのは誰にも内緒の話。






 あるとき僕は電車に乗っていた。何でかって?理由なんてそんなに立派なものじゃないんだ。ただ会社に行くってそれだけ。
 あれから僕の周りで特に変化は無かった(当たり前だ)。変わったことと言えば、ぎゅうぎゅう詰めの電車から見える桜の花が、若々しい葉になったくらい。今日も僕は5つ先の駅に降りて、この草臥れてきたスーツで会社に行く。



 けれど僕の中で確実に何かが変わった。上手く言えないけど(言えなくて良いことなんだろう、きっと)、何かが。



 僕はCDを買った。志麻さんの曲だ。部屋の中にあるコンポは飽きもせずそればかり流している。僕も飽きもせずたまに口ずさんで、高いキーを歌えなくて首を傾げたりなんかしてる。
彼女は相変わらず歌い続けているらしい。この間町のどこからか彼女の曲が聞こえてきた。
 先日、その彼女からも電話がかかってきた。どうやら来週近くのライブハウスでライブをやるそうだ。チケットは郵送してくれたとのことで明日にでも届くだろう。
 ぷしゅ、と音を立てて電車の扉が開く。人並みに押し出される。
 ライブの後時間があったら会えないか後でメールしようと思いながら、僕は排気ガスで煙る町へと歩き出した。






おわり。




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もうしらん。