壊したくないんだ。
壊したくないんだ。
壊したく、ないんだ。








千切れた翅、もいだ翅。







「寒いね」
鼻の頭と頬を赤く染めた彼女はそう言って、笑って僕の手を握る。
僕はその手をそっと握り返した。

本当は、その手を握り潰してしまいたいだなんて、
君は知らないんだろう。
絶対、知らないんだろう。



昔からの性癖なのか、僕は心の内に破壊願望と破壊衝動の二つを持ち合わせていた。
何でもそうなんだ、手に入ったものは、壊したくなる。
それが綺麗なものであればあるほど。
まず、手の届かないように思えるそれが、どうしようもなく欲しくなる。
欲しくて欲しくて、それだけしか考えられないような気になる。

例えば、あれは凄く幼かった頃だ。
暑い暑い夏の日、僕は唐突に蝉が捕りたくなった。
宿題なんかやる気が無くて、虫捕り網を掴んで走り出した。
こんな町の中に蝉なんかいるはずも無くて、補助輪を外したばかりの自転車に乗って、僕は町外れの林にやってきた。
そうして木の幹にとまる蝉の影を見つけて、歓喜に打ち震えた。
思い切り網を打ちつけたら、蝉はジジッと声をあげ、敢無く網の中に捕われた。
逃げようともがくそれを僕は手で掴んでしげしげと眺めた。
茶色い体、左右対称の翅、その筋、細い6本の足、蛇腹のような腹の動き、額の紅玉のような玉。
どれひとつとっても蝉は美しかった。
それで・・・・・・・・・・・・僕は。

僕は破壊衝動に襲われたのだ。

翅を毟り取ってしまいたくなった。
こんなに美しいものがある。
僕はそれをこの手で壊せるのだ。

気付いたら蝉の4枚の翅ははらはらと地面に落ちていって、翅をなくした蝉はそれでも必死でもがいていた。
それを見て僕は急に、何故こんなものを美しいと思ったのだろうと思った。
突然、色を失くしたかのように。
・・・・・・・・・・・・・・・キモチワルイ。
僕は確かにそう呟いて、其れをそこいらに投げ捨てて帰った。
帰り道、僕は哂っていた。
とても、満足そうに哂っていた。

ああそうだ、きっとその頃からだ。
鮮烈な記憶が蘇ってきて、震えそうになった。
怯えなのか歓喜なのかは、解らない。



「どうしたの?」
「いいや、なんでもない」
不思議そうに問いかけた彼女に、僕は無理矢理笑みを搾り出して答えた。



彼女は、僕は初めて好きになった人だ。
可愛くて、でもそれ以上に綺麗で、たまに見せる、髪を掻き揚げる仕草が、その首筋の線の細さが、どうしようもないくらい興奮させた。
ずっと、ずっと好きで、けれど気持ちを打ち明けられないままで居たら、彼女の方から、僕が好きだといってきた。
手に入った。
そう思った。
其れと同時に、頭の髄で密かに囁く声に、僕は初めて畏怖を覚えた。

手に入れたなら。
あとは。
壊してしまえ。

彼女は綺麗だ。
綺麗過ぎるくらい、綺麗だ。
彼女に言わせれば、汚い部分もあるというのだけれど、僕にとっては、・・・・・・僕なんかと本当は居ちゃいけないくらい綺麗だ。
どうしてこうまでして綺麗にいられるんだろう。
たまに見せる真剣な顔も、はにかんだ顔も、全てが、鮮やかに目に映る。
何か絶対的な物を持ってる、そんな人。
そんな彼女が、僕の手の中に堕ちて来たのだ。
だから、本当は壊したくて壊したくて、僕の手で彼女を壊してしまえたらと願わない日は無くて。
けれど。
彼女は、僕の憧れだから。
夏の焦がれる太陽みたいに、雪が降り積もった日の朝のように、強烈で途轍もなく大きくて、けれど温かくて心地よくて。
こんな気持ちは初めてなんだ。
だから、

・・・・・・・・・・・・壊したくない。

なのに本能的な衝動は消えてくれない。
どうしようもない葛藤といつも戦う。
負けそうで、負けそうで、ギリギリの所で留めて。



そんな気持ちを彼女はきっと知らないんだろう。
僕がこんな捩じれた心で見ているなんて。

恥ずかしい、情けない。
でも好きだ。
怖い。
辛い。
好きだ。
好きだなんて感情何処で覚えたのかわからないけど好きだ。
壊してしまいたい、この手で。
イヤだ壊れないで。
壊してしまえ。壊せ。








壊せ。








―――――――――――緩く、手を握り返す。
彼女はとても嬉しそうに笑った。

貫く胸の痛みを押し隠して、僕は口の端を吊り上げた。

こんな、歪んだ心は知らないままで居て欲しい。
けれど、それって彼女は僕の表面しか見ていないってことにならないか、そんなのはいやだ。
だから壊してしまって、僕がどんな人間か思い知らせてやればいい。
いや、此の儘で良いんだ。僕はそうであると望んでいるんだ。
彼女は知らない儘で良い。
知ったらきっと壊れてしまう。
汚れてしまう。

だから彼女は此の儘でいいんだ、知らない儘で良いんだ。


「それじゃあ、また、明日」
「うん。・・・・・・ねえ?」
「なに?」

「どうして、・・・何を怖がってるの?触れるのが、怖い?」

















「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」





















なにが?と僕の唇が動いた。
さあ、一緒に居て何となく解ったの、私のこと好いてくれてはいるけど、触るのを怖がってるように思ったの、と彼女は言った。
そんなこと、ないよ?とまた、唇が動く。
そう?なら良いけど。と彼女は言った。


でも、解っているよ、という顔をして、彼女は笑って、じゃあね、と帰っていった。




本気で壊してやりたい。





駆け出そうとしたら、目の前で電車の遮断機が降り始めて、彼女は足早に逃げた。





かんかんという音が体の中で反響して、頭の中でも鳴り響く。
電車が通り過ぎる。
不意に途切れたその音は、まだ僕の中では鳴り続けていた。



蝉の音のように、聞こえた。















知られてしまった、知られてしまった、知られてしまった。

彼女に、知られてしまった。

部屋に逃げ帰り、閉じこもって机に座ってがたがた震えながら、僕は目だけをしっかと開けて机を見ていた。

もう、終わりだ。
もう、だめだ。

僕は君を壊してしまう。
もう、僕は君を壊すしかなくなる。

壊したくない。
壊したくない。



コワシタクナイ。








その、時だ。
僕の頭に、名案が閃いた。
僕はガバッと顔を上げ、目の前に映る物を見つめた。
ああそうか、僕は今までなんて愚かだったんだろう?
もっと早くこうすれば良かったじゃないか。
まるでエジソンかアインシュタインにでもなったみたいだ。
これはそうだ、僕の一番の考えだ。
目の前にはカッターナイフ。
筆立ての中、蛍光灯の明かりを反射して鈍く光る其れを取り出す。
チキチキと、刃を出して、僕はもう片方の手を出して其れを手に照準を合わせて振り翳した。

これを、一思いに突き立てればいいんだ。

そうさ。

君を壊したくないなら、


僕のこの手を壊せばいい。





僕を壊してしまえばいいんだ。




























――――――――――僕は、カッターを投げ捨てた。
かしゃん、と音を立てて、床に落ちる。








「ど、して、できないんだ・・・・・・・ッ!」









僕は哂いながら泣いていた。
おそらく僕はこの先永劫に、この衝動に捕われて、壊れることも出来ないままでいるのだろう。





頭の中では、まだあの時の蝉の音が、
うるさいくらいに鳴り響いていた。











END


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遮断機って言葉が出てこなくて焦った思い出がある。