黒猫屋敷の幽霊




その日はとても暑かったから、どうにかなってしまったのだろうかと僕は思った。
 

 此処は何処だろう。
 さっきまで確かに補修の帰り道だったはずなのに。
 そもそもなんで中3の夏休みに補修を受ける羽目になったのかというと、僕が赤点を取ったからなのだけれど。そんなことはおいといて。
 どうみてもこの地域の町並みでないことはわかる。
 ・・・・・なんというか、西洋の、もしくは大正浪漫が流行った時代に建てられような家。
 白い壁には蔦が這い上がるようにくっついていて、ざわざわとした庭には、其処此処に花が咲いている。檸檬の木も見えた。そして僕がたっている、真っ白な小石を敷き詰めた道の向こうには真っ白な露台。
 いつの間に人様の家に入り込んでしまったのだろう、早く扉を探してお暇しなくては不法侵入で捕まってしまう。
 

 そんなことを考えていたら、横からがさがさと葉ずれの音がした。
「う、うわっ!すいません!!」
 と、僕はあわてて謝ったのだけれど、相手は人ではなかった。
「ね、猫?」
 そう、今僕が頭を下げた相手は黒猫だったのだ。
「あぁ、吃驚させないでくれよ」
 それにしても、やたらと太った猫だ。黒猫と聞くとほっそりとしてかつしなやかなイメージを持ってしまうけれど、この猫はどうあがいてもそんなイメージを持てそうな雰囲気ではない。ぽっちゃりという域ではなく、完全なるデブだ。全体的な大きさも仔犬位はありそうだし、腹の辺りは僕の腕2、3本分はありそうだ。よく此処まで動けたものだ。
 逆に感心していると黒猫は僕に一瞥をくれてきた。トパアズ色の瞳でものすごい目つきが悪い。
 しかしてこういう顔もキャラクターとしては愛嬌があるものだろうか、などと美術部員である僕は思い直してみた。・・・・いや、やっぱり気のせいだ。
 黒猫は僕の前にでん、と丸まった。丁度其処は木漏れ日が当る場所になっていた。ふと、いつからか茹だる様な暑さが何処かへ飛んでいってしまったことに気付く。
 また、がさがさ音がした。今度こそ人かと思って、頭を下げる用意をしていると茂みから現れたのはまたしても猫だった。しかもまた黒猫だ。
 けれど、今度の猫は丸まっているデブと比べると、天と地ほども違う位の美猫だった。
 すらっとしていてしなやかで野性味があって格好良い。こっちの瞳は灰金色だ。
 細い方はデブに鼻を寄せて起こし、二匹は同じ方向―――露台に向かって歩き出した。
 するとどうしたことだろう、茂みの中から、何匹もの黒猫が出てきたではないか。後から後から出てきた猫たちは、少し崩れた列になって、二匹の後に続いていく。
 僕は、ただただ唖然とその光景を見つめていた。
 やがて、露台の奥の茂みからも、がさがさという音がして、今度という今度は人間が現れた。
 白いレースのワンピースを着た女の人だ。髪は長くて後ろに垂らしていて、華奢そうな造りの顔だ。2、3こ年上だろうか。落ち着いた雰囲気と、不思議な雰囲気を両方兼ね備えた人だ。
「あら・・・あなた・・・」
「あ、すいません、勝手にお邪魔してしまって・・・気が着いたら此処にいたんです、すぐに出て行きますから」
「いえ、いいのよ。お客様は大歓迎。・・・・寧ろあなたは呼ばれて此処に来たのだから」
「え?」
「ようこそ始まりの庭へ」
「ええ?」
「こっちにきて、一緒にお茶でもいかが?」
「あ、はい・・・・頂きます・・・・・・・・」
 中間の、寧ろ・・・のあたりはよく意味が解らなかったが、とりあえず、お茶の申し出には頷いておいた。可愛いお姉さんのお誘いを無碍に断るのは、いくら女々しいと言われている僕であっても男が廃るというものだ。
 露台の白い椅子に座る。
「待っててね、今お茶を入れてくるから」
 麦茶がいいな、と思ったけれど言うのはやめておく。お姉さんは橄欖の茂みに消えていった。
 細身の猫と、何匹かの猫は付いていって、デブ率いる残りの軍団は僕の横で寛ぎだした。午後の陽射しは白く眩しくて、植物たちの色がより一層映えてみえる。夏は全てのものに金色の粒子がかかったように見える、とお祖父ちゃんが言っていたのを思い出した。
 全てが白に染まる、色が半分抜けたような冬も僕は大好きだが、夏はそれ以上に好きだった。
 絵を描くときの筆が止まらない。色彩が溢れ出す感じが夏にはある。色を造るとき、塗るとき、全ての色に溶け込む感じがした。鮮やかに物を描きたいと想うのは僕の中の本能なのかもしれなかった。
 デブ猫は、僕の脚の真下に腰を下ろし、くぁ、と欠伸しながら背伸びをした。その動作は宛ら燻腸が腿詰になろうとしているみたいで思わず笑ってしまった。デブはじろりと此方を睨んだが、またふいと視線と逸らしうとうとし始めた。
「・・・・・・・・・・それにしても黒猫の多い家だなあ」
「いつの間にか此処に住み着いた子達ばかりなのよ」
 くすくすと笑い声がして、お姉さんが現れた。硝子の盆にグラスが二つと汗をかいたポット、焼き菓子、そして昔懐かしいカルピスの原液の瓶、それから・・・・よくわからないけれど、びろうどの子袋。
「ごめんなさいね、お待たせしちゃったかしら」
「いやあ、そんな」
「お茶にしようと思ったのだけど、丁度冷えてるのがあったからカルピスは嫌い?」
「いえ、すごく好きです」
「そう、よかった」
 お姉さんは笑う。
 実は麦茶が欲しかったりしたのだが、この笑顔を見てはそんなこと言う気も失せてしまった。それに実際麦茶がカルピスになったところで紅茶でなければ僕は何でもよかった。紅茶は飲むと頭が一瞬くらっとするからあまり得意な方ではない。
 ことん、とグラスが前に置かれ、お姉さんはポットの中の氷水とカルピスの原液を入れてくれた。
 綺麗な指だな、と僕は思った。
 顔と同じく華奢な造りだけれど、マニキュアとかはあまり塗っていなさそうな手。塗ったとしてもあまり派手な色は似合わないだろう。桜色とか、桃色。
 白くて細くて、でも爪はちゃんと切ってあるから家事とかはしてそうで。
 ・・・・一人暮らし、なわけないか。
 グラスに手を伸ばしたら、お姉さんが手でそれを制した。
「ちょっと待って?・・・・あなたの名前は?」
「あ、氷追凌です」
「そう、生まれた日は?」
「え、ええと?・・・8月9日・・・ですけど」
「そう、それじゃ・・・・・・」
 お姉さんは例の謎の子袋を取り出して中を探る。
 ・・・・・なんなんだ、というより何が入っているんだろう。
「あぁ、あったあった。これを中に入れてから飲むといいわ」
「はぁ、何ですか?これ」
 出てきたのはボトルグリーンの色をした小さな欠片だった。飴か何かだろうか。美味しそうだ。
「それはね、ペリドット。かんらん石とも言うわね、あなたの誕生石よ」
「ブッ」
 石かい。
「入れてごらんなさいな」
「は、ハイ・・・・・」
 石なんかを入れて味が変わるわけでもないのだろうが、言われるがままに放り込んでみた。
 ・・・・・石を入れた所為か、カルピスの色は、乳白色だったのが心持ち緑色になったような気がした。
 そっと、口に運んでみる。
 やはり、いつもと変わらないカルピスの味、なのだけれど。
「・・・・・不思議な味がする」
「おまじないみたいなものよ、美味しくなかった?」
「いえ、美味しいです」
「ふふ、よかった」
 お姉さんはゆるく唇を吊り上げて微笑む。
「お菓子もどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 摘んだクッキーは少し肉桂の香りがした。正直肉桂も苦手なのだけれど返すのも失礼かと思い食べた。
 ふと、お姉さんの名前をまだ聞いていないことに気付いて尋ねてみる。
「あの、お姉さんは名前なんていうんですか?」
「私?私は棗というの」
「なつめさん・・・・・」
「ねえ、凌くん?」
「はい?」
「あなた、部活は何をやっているの?」
「え、えと、美術部です・・・・・」
 そう、僕は美術部である。男のくせにマイナーな、と周囲から言われてきたけれど、僕は絵を描くことが好きだから、運動部に入ろうとは思わなかった。
 母さんも、父さんも「中学生の間は運動部に入っておけ」と言っていた。
 けれど僕は絵を止めたくなくて。勿論そんなに巧いわけじゃないけど、僕は絵を描いていたかった。
「そっか、絵が好きなのね」
 お姉さんは厭な顔などせずに微笑んでくれた。
 大抵の女子はコレを聞くと敬遠しだすものなのに、どうしてだろう。
 心の中が、じわりと暖かくなった。
 そういえば、お祖父ちゃんも同じことを言っていたな、と思う。
 家族が美術部に入ることを反対していた中で、お祖父ちゃんだけは僕の味方だった。
『絵が好きなら、絵を描けばええ。それが凌なんだから』
 結局、お祖父ちゃんの説得で僕は美術部に入れたのだ。
「はい、大好きです」
「良いことだわ、・・・・今も絵を描いてきた帰りだったの?」
「いえ、補習でした」
「そっかそっか。・・・・・・・・なんとなく塞ぎこんでるように見えたのはその所為なのかしらね」
「・・・・・・・・え・・・」
 どき、とした。
 なにか、この人は見透かすような目をしていたから。
 何故か、喋りたくなる。
「それとも、そう見えたのは私の気のせい?」
「・・・・いえ、・・・・・・僕・・・・は・・・・・・」
 気が付いたら、喋りだして止まらなくなった僕がいた。
「・・・・・なんで補習をしなきゃいけないんだろうって・・・・・僕は、絵を描いていたいのに、 どうして数字と向き合わなきゃいけないんだろうってずっと思ってました」
「そう、それで?」
「将来は絵関係の仕事に就きたいとか、そんなじゃなくて、僕はただ、絵を描いていたいんです。それで進路用紙には芸術科のある高校を書いたんです。そうしたら、両親は怒って・・・・・・先生だって・・・・・数学の成績が悪いからって・・・・補習させて・・・・・」
 

 何で僕はこんなことを話しているのだろうか。
 初対面の人に向かって、よくも此処まで話せるものだ・・・いや、初対面だからなのかもしれない。
 

 兎に角咽の奥が熱くて、喋っていないとおかしくなりそうだった。
「どうして・・・・・・どうして好きなことをしてちゃいけないんですか、絵を描きたいって思うことはそんなにいけないことなんですか?」
 数学の教科書を読むたびに悲しくなった。泣きそうになった。
 其処にあるのは数字の羅列と感情の見えない文章だけ。何が言いたいのか、何をしなければいけないのか全く解らなくて。
『学びたいことを学べ』
 そういった両親も、先生も、皆して僕を束縛する。
「僕のものなのに・・・・・・誰にも譲っちゃいけない、僕のものなのに・・・・・頭では・・・・解ってるのに・・・・・・どうして・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・どうして?」
「どうしてそうすることすらできないんだっ・・・・・・・・・!!!」
 
 悪いのは、本当は自分なのだと解っている。
 厭なら、本当に厭なら行かなければいい、とか。どうしても進みたいと思うなら、反対も押し切っていけばいい、とか。
 それを実行する勇気が、僕には無くて。
 後のことにばかり考えがいって。
 親は怒るだろうとか、縁を切られるかもしれないだとか、先生は意地でも数学を叩き込もうとするだろうとか。
 ・・・・・殴られるかもしれない、とか。
 臆病なばかりで。
 本当は、そんなことくらい乗り越えてみせろっていうのもわかってる。
 わかってる。
 けど。
 言うことを聞かない体は、どうしても動いてくれない。

「もう・・・・・・・厭だ・・・・・・・・・・」
 木漏れ日が眩しい。
 風が吹いている。
 その自然の中にいて、僕一人だけが、卑屈で、小さくて、頭だけしか動かない惨めな存在になる。
 鮮やかすぎる夏の中、僕、一人だけが、色を失くしてしまったみたいに。
 お姉さんは、黙ってカルピスを掻き混ぜていた。
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・皆が」
「え?」
「皆が、本当に全ての人が、反対していた?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 聞かれてハッとする。
「・・・・・・・いえ、・・・・・祖父だけは、反対、しませんでした・・・・・・・・・」
 
 お祖父ちゃん。
 お祖父ちゃんだけは、また僕の味方をしてくれた。
『好きなことをやらなけりゃあ、人生じゃあねえ』
 毛鉤職人だったお祖父ちゃんは、仕事場に来てずっと泣いている僕に、そう言ってくれた。
 言葉は、ずん、と優しく厳しい重みがあって、ひどく落ち着いたのを覚えている。
 毛鉤職人だなんて、地味で儲からない仕事をわざわざ選んでやっているお祖父ちゃんだからこそ、そんな重みがあったのかもしれない。
「そっか・・・・・じゃあ、味方はちゃんといるのね?」
「・・・・・・・・・・・はい・・・・・・」
 

 カルピスを口に運ぶ。
 甘くて、冷たい。


「ねえ、凌くん」
「・・・・・はい」
「夢ってね、本当に叶うことなんて少ないと思うの」
「・・・・・・・・・・」
「世の中は厳しくて、差別ばかり。そんな中勝ち抜いていける人はなかなかいない」
「・・・・・・っ僕は、勝とうとか思ったことなんてありません!・・・ただ・・・・・絵が描きたいだけです・・・・・・・・・・それだけなんです・・・・・」
「皆そう言うわ、最初は」
「・・・・・・・・っ!!」
「でもね」
 お姉さんは、静かな笑みを湛えていた。
「世間が言う、『勝ち抜いた人々』も、皆その心を持っているわ。・・・・・・そして、その心をずっと忘れないで持っているの」
「・・・・・・・・」
「続けられるという保障は何処にも無い。けれど、続けられないという確信だって、何処にも無いでしょう?」
「・・・・はい」
「大切なのは好きで入ること。それだけ絵が好きなら頑張れるはずだから。辛いことも厭なことも、いずれは夢につながっていく。そう思っていて」
 僕はグラスを持って俯いていた。
 汗をかいた其れの中、淡く緑に光る石。
「ペリドットは、太陽の石とも言うんですって」
「・・・・・・・太陽の、石・・・」
「石の意味は『和合』。中世では恐怖を打ち消す石だと信じられていたの、イギリスのエドワード7世も幸運を呼ぶといって始終身につけていたそうよ」
「・・・・・・・・」
「その石はあげるわ。・・・・・怖くなったときは思い出してごらんなさい?お守りの力でもなんでもいい、少しでも恐怖が飛んでいきますように」
「・・・・・・・・・・・ありがとう、ございます」
 にゃあ、と野太い鳴き声がして、デブ猫が無を摺り寄せてきた。
「さて、と、そろそろ戻った方がいいわ、出られなくなってしまわないように」
「あ、はい・・・・・・・」
 ぼんやりとした頭のまま、僕は席を立った。振り返ると、錆びた鉄の門が道の向こうに見えた。
「・・・・・・また、此処に来てもいいですか?」
 僕の問いに、お姉さんはまた、微笑んだ。
「ええ、迷ったときはここへいつでもおいでなさい。全て吐き出して、白になれる『始まりの庭』へ。・・・・・・お祖父さんによろしく」


 



 ―――――気が付くと、学校帰りの川原だった。
 辺りを見回してみても、庭などまるで見当たらない。
 蒸し返す暑さ。
「夢だったのかな・・・・・・・」
 呟いて、ポケットの中を探った。
 こつ、とあたる何か。
 取り出してみたら、甘い匂いの残る淡い緑の石だった。
 歩き出して、しばらく行ってからもう一度振り返る。
 遠くに見える逃げ水の中に、一瞬だけあの庭が揺らめいた様な気がした。
 きっと、あの中に僕は入ってしまったのだろう。
 あの、黒猫屋敷に。
 ぼやっとする頭で、そう、思った。


 



 帰ってから、お祖父ちゃんにこのことを話してみた。
 全て話し終えると、お祖父ちゃんは毛鉤を作る手を止めて、僕に向き直った。
「・・・・・・わしも、若い頃に其処へ行ったことがある」
「・・・・・本当?」
「本当だとも」
 ほら、といってお祖父ちゃんは引き出しの中から、小さな石を取り出してみせた。
 九月生まれのお祖父ちゃんは、金色に・・・・あのデブ猫と一緒ないろをした丸い石だった。
 琥珀なんだ、とお祖父ちゃんは言った。
 誰よりも優しく、長寿、という意味を持つのだそうだ。
「・・・・・・・家の商家を継ぐか、憧れていた毛鉤職人を目指そうか、迷っていた。・・・・・丁稚から帰るときだったかな、あの人のお陰で、わしは、今こうして好きな毛鉤をつくっていられると思うんだよ」
「・・・・・・・そうなんだ・・・・・・・」
「・・・・・はて、あの人の名前がどうも思い出せないんだが・・・・・凌、お前は思い出せるか?」
「え・・・・・・・・ええと、なんだっけ・・・・・・」
 頭を抱えると、お祖父ちゃんはからからと笑った。
「お前もか、・・・・・・・やっぱりあすこは・・・・・あの人は幽霊なのかもしれんなあ」






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凄い必死で石を調べた記憶がある。